受験初期は、受験仲間との時間が支えになっていた
受験を始めたばかりの頃は、同じ公認会計士試験を目指す受験仲間と過ごす時間が、精神的な支えになっていました。 勉強方法や予備校の講義、答練の出来について情報交換をしたり、「今どのくらい進んでいるか」を共有したりすることで、一人で勉強しているときには感じにくい安心感がありました。
特に、勉強時間が長くなりがちな受験生活の中で、同じ環境に身を置いている人と話す時間は、孤独感を和らげてくれる存在だったと思います。当時の自分にとって、受験仲間との会話は単なる息抜きではなく、「この試験に取り組んでいるのは自分だけではない」と実感するための大切な時間でもありました。
ただ、受験期間が長くなるにつれて、その時間の意味が少しずつ変わっていったようにも感じています。
いつの間にか、休憩室で話す時間が増えていった
受験仲間と話す時間は、ある日を境に急に増えたというより、気づかないうちに少しずつ長くなっていったように思います。
最初は、勉強の合間に少し話すだけの短い休憩のつもりでした。それが次第に長くなり、休憩室で過ごす時間が当たり前になっていった感覚があります。
自分は当時、12時から30分だけ昼休憩をとるというスケジュールを組んでいました。受験仲間と知り合ったばかりの頃は、その時間を意識して守っていましたが、次第に慣れてくると、30分のつもりが気づけば1時間経っていることも増えていきました。
最初のうちは「今日は少し話しすぎたな」と罪悪感を覚えることもありましたが、それも長くは続かず、次第に1時間、2時間と会話する日が当たり前になっていったように思います。
その頃の自分は、内容としては特に意味のない会話であっても、「受験中に人と話す時間も大切だ」と都合よく捉え、勉強時間が削れていることを深く気にしなくなっていました。
休憩時間だけでなく、答練が終わったあとも、自然と話す時間が増えていました。答練の直後は、解いた内容を振り返る時間だったはずが、実際には友だちと「何点だった?」とか「どの問題が難しかった?」といった会話をし、他人と自分の点数を比べながら、そのまま話が続いていくことが多くなっていました。
最初のうちは、解法を確認し合ったり、分からなかった部分を聞いたりすることもありましたが、次第に話題は点数や難易度の話に偏り、気づけばそれだけで時間が過ぎていくことが増えていたように思います。
当時は、こうした時間の使い方に対して、特別な違和感を持つことはありませんでした。
「簡単には受からない」という自分の思い込みが、緊張感を下げていた
今振り返ると、受験仲間と話す時間が増えていった背景には、「公認会計士試験は簡単には受からないものだ」という自分の思い込みがあったように感じます。
それは誰かに言われたわけでも、はっきりと共有された認識でもなく、周囲の状況を見て自分の中で勝手に形づくられていった感覚でした。
周りには、何年も受験を続けている人が少なからずいました。そうした人たちと日常的に話す中で、「この試験は長期戦になるのが普通なのだ」「すぐに結果が出なくても仕方がない」といった考えが、知らないうちに自分の中で前提になっていったように思います。
自分が通っていた予備校でも、5浪している人や、短答式試験を何度も受けているという人が身近にいました。最初は、「なぜここまで長引いてしまったのか」を聞き、反面教師にしようという意識で話を聞いていました。
しかし、そうした状況にいる人は一人だけではなく、二人、三人と増えていき、気づけば自分が親しく話していた受験仲間の多くが、同じように長期受験の状態にありました。その環境に長く身を置くうちに、「会計士試験は時間がかかるのが当たり前なのだ」という認識が、いつの間にか自分の中で強くなっていったように思います。
当時の自分は、皆が同じような感覚を持っているのだと、勝手に思い込んでいました。その結果、試験に対する危機感や緊張感は少しずつ薄れていき、「今すぐ結果が出なくても仕方がない」という気持ちが、どこかに生まれていたように感じます。
ただ、後になって振り返ると、その認識は必ずしも正しくありませんでした。というのも、当時よく話していた受験仲間の多くは、その後の短答式試験で合格していたからです。
「簡単には受からない」という意識を強く持っていたのは、周囲全体ではなく、あくまで自分自身だったのだと、今になって気づきました。
今振り返って思う、受験仲間との距離感の難しさ
今振り返ってみると、受験仲間がいたこと自体を否定したい気持ちはありません。
実際、同じ試験を目指している人から聞く話の中には、当時の自分にとってとても参考になったものもありました。たとえば、5月短答から8月短答(いわゆるゴッパチ)を目指す際の勉強の進め方や、直前期に意識すべき点など、実体験に基づいた具体的な話を聞けたことは、独学では得られなかった視点だったと思います。
また、長い受験生活の中で、同じ立場の人と話せる時間は、精神的な支えになっていたのも事実です。受験勉強だけに向き合い続ける毎日の中で、誰かと話して気持ちが軽くなる時間は、当時の自分にとって貴重なものでした。
ただ一方で、当時の自分には精神的な余裕がほとんどなく、受験仲間と話す時間を、ある意味で「楽しいもの」として強く感じていた部分もあったように思います。勉強のことを考えなくて済む時間や、共感し合える会話が、息抜き以上の意味を持ち始めていたのかもしれません。
その結果、どの程度の距離感を保つべきかを、自分自身でうまくコントロールできていなかったと感じています。話す時間が増えていることや、自分の基準が少しずつ緩んでいることに対して、「今は戻った方がいい」「今日はここまでにしよう」と立ち止まって判断する余裕が、当時の自分にはありませんでした。
受験仲間との関係は、良いか悪いかで簡単に割り切れるものではなく、当時の自分にとっては、その距離感を測ること自体が難しかったのだと思います。
この経験から感じていること
ここまで振り返ってきて思うのは、受験仲間との関係や距離感そのものが、良かったとか悪かったとか、簡単に評価できるものではなかったということです。助けられた場面もあれば、結果的に自分の判断を鈍らせてしまった部分もあり、そのどちらもが当時の受験生活の一部だったのだと思います。
受験期間が長くなっていた当時の自分は、自分の置かれている状況や気持ちを、冷静に見つめ直す余裕がほとんどありませんでした。仲間と話す時間が増えていったことも、「楽しい」「支えになる」と感じる一方で、それが自分にとってどんな影響を与えているのかを考えることはできていなかったように思います。
今になってこうして書いてみると、問題だったのは受験仲間の存在そのものではなく、自分自身がどこまでを息抜きとし、どこからを流されている状態と捉えるのか、その線引きをできていなかったことだったのだと感じます。ただ、それも当時の自分にとっては精一杯で、後からでなければ気づけなかったことでした。
この記事は、「こうすればうまくいく」という話でも、「こうすべきだった」という反省でもありません。あくまで、長期受験になっていた頃の自分が、どんな環境で、どんな感覚の中にいたのかを振り返った記録です。もし、今受験中の方が読んでくださっているなら、自分の状況と重なる部分があるかどうかを考える材料の一つとして受け取ってもらえれば、それで十分だと思っています。

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